2011年2月号 4ページ目<完結>
引用1;
自己表現をしなくてはいけないなんて、これは、呪いだとおもう。
砂漠で塩水をのむようなものです。
だって自分がここにいる存在意味なんてほとんどどこにもないわけだから。
玉ねぎの皮むきとおなじことです。
一貫した自己なんてどこにもないんです。
でも物語がかわって表現するからいいんです
(2003年、今から8年前)
引用2;
誤解の総体が本当の理解なんだと思います。
いろんな誤解やら曲解やら、やたらほめられたり理不尽にけなすものもあるんだけど、たくさんあつまると全体像としては正当になる。
だから、僕らは個々の誤解を積極的に求めるべきで、そう考えるといろんなことがずいぶんラクになるんですね。
これまでほとんど誰の個人的悪口も言っていないし、誰の足もひっぱってないし、何を言われてもおおむね口を閉ざしてきたんだけど、まあそれでよかったんだろうなと
(2005年、今から6年前)
引用3;
僕が伝えたかったのは、現代のメディアが我々の精神に対して及ぼす危険性であり非人間的な酷薄さです。
我々は日々の生活において、まわりをそのような人々にぐるりと取り囲まれて生きているといってもいいくらいです。
我々が我々自身の意見だとみなしているものの多くは、よく考えて見れば、彼らの意見のただ受け売りに過ぎないということが往々にしてあります
(同2005年)
引用4;
開かれた民主的で自由で多元主義的な世界と、閉じた管理され操作された抑圧的な世界でいえば、現在は閉じた世界が強くなっています。
原理主義、カルト、軍国主義。
人は今すごくいろんなことを考えなくちゃいえけません。
すごく複雑で下手をすると迷子になってしまう。
でも小さな閉じた世界に入れば何も考えなくてすみます。
導師(グル)や独裁者がすべて教えてくれるので、簡単で楽で、誘惑的です。
でもそれは罠です。
一旦閉じた世界に入ったら逃げられません。
ドアは閉じてしまうんです
(2006年、今から4年前)
(注;(以下三浦)
引用1は自分探しのウソを指摘。
物語とは、人生の過程と言い換えてもよいか。
自分がよい過程を意識して過ごせているかの方が重要かもしれない。
引用2を読むと、ワイドショーを見る意味がなくなる。
要は自分がなにをするか。
それに対する他人の反応にも彼のように考えると確かに気が楽である。
引用3はメディアの意見の受け売りの危険性。
それを口にすることで確実に自分は侵されてゆく。
引用4は閉じた社会、考え方の危険性。
自分で考えないで人に指示してもらうことは楽かもしれないが、オチは決してハッピーというわけにはいかないようだ)