2010年2月号  3ページ目

例B良い人間関係;良い人と出会うことによって成長することは誰でも大なり小なり当てはまりますが、ここでも2パターンあります。

ひとつは良い人と出会うとそれでスゴク伸びるが、出会わなくとも不満はなく、自分でもそれなりに成長の方向性がつけられる人。

こういう人は、良い人の出会いに依存はしておらず、出会いを肥やしにするタイプですね。

一方で、良い人と出会わなくては成長できない人もいます。

自分は良い上司、部下、家族、友人と出会えれば成長できるのにと思っています。

自分の周囲の人のレベルがすごく気になります。

また、良い人と出会ってからも、慣れてくると「あの人にはこういう短所がある」「自分が求めている人はこのレベルではない。

もっと素晴らしい人と出会わなくては」と要求はエスカレートしてゆきます。

しかし、さて自分自身はどうかというと、あんまりかわりばえないという事実に気付けていません。

また、仮に自分が成長し、成長していない人を追い抜いてしまえば、周りには成長していない他人が増えることはアタリマエですが、昔自分もそうだったことをコロット忘れて、そんな人たちに思いやりをもつことも出来ません。

良い人間関係に頼りきっているので、良い人たちがいないと生きていけない依存症になっています。

高級温泉旅館に泊まると、スタッフの方達が自分に注目して挨拶、声かけをしてくれて「なにかございませんか」というモードでスタンバイしてくれています。

自分で何もしなくても素晴らしい風景があり、掃除の行き届いた温泉があり、おいしい食事がでます。

そしていつも気が利く人たちが、気の利いたサービスをしてくれるわけですが、自分ではそれを得るために何もしていません。

やったことといえば、そこでの風景、温泉、食事、接客に対するこまごまとした点数づけと、多めにお金を払っただけですね。

それを普段の人間関係でも求めてしまうことになりかねないのです。

普段の人間関係では、自分が何をしたかでしか結果が出ないため、いくら他人に対して点数付けが上手だろうとそんなことはなんの役にもたたないんですね。



例C現代の日本;現代の日本ほど、飢死の心配なく、安全で、住居、自家用車、エアコン、テレビ、洗濯機、パソコンがあふれているところは歴史的にみても、また現代の世界中を見渡してもそうそうありません。

そして砂漠がなく、水が豊富。

教育に関しても、本人の希望、やる気、能力次第でなんとでもなります。

これらを、この上なくラッキーなことととらえ、自分のやりたいことを考えたり、努力したり、勉強したりする人はもっとハッピーになってゆくに違いありません。

一方では、飢え死の心配はないが、逆に食べ過ぎたり運動を全くしない人もいます。

誰でも学校にいけてその他の方法でも勉強もできますが、あらゆる勉強を拒否し学校に行きたがらない人もいます。

ひとつの凶悪犯罪を繰り返しテレビが報道しているのをみて、凶悪犯罪が増えている、治安が悪くなっていると誤解する人もいます。

昔の日本には、報道されない凶悪犯罪件数は現代よりはるかに多かったこと、現代でも発展途上国の治安の悪さの現状や、先進国のイギリスでも小学生をそれぞれの親が送迎しないことなど考えられない一方で、日本では子供だけの集団登下校や都会では一人で地下鉄で通う子供も大勢いることはゼンゼン気付いていないか、もしくはコロット忘れています。

そして若い頃からなにも努力しなくても飢え死することもないため、やる気がうせて、手に職という気もなく「これといって何ができるというわけでもないが自分さがし中」みたいな人が出来てしまいます。

そして挙句の果てには「やりがいがない。

目標がない」と感じ、「昔の時代のほうがよかった(?)」とバクゼンと感じるわけです。

こういう人は昔の人は朝から晩まで働いても8割以上の収入は食費に消え、卵、肉、砂糖は高級品でたまにしか食べられない。

お茶もたまに。

お酒は冠婚葬祭のときくらい。

コーヒー紅茶なし。

勉強したくてもそんなユトリはなし。

エアコンなし、車なし、洗濯機なし、テレビなし。

平均寿命は45歳(大正時代85年前)、35歳(明治時代100年前)、26.5〜36歳(江戸時代100〜350年前)ということをやっぱりコロット忘れています。

ちなみに僕は今40才なので、大正だったら今たぶん生きているがあと平均余命5年、明治:運がよければ生きている、江戸時代:たぶんもういないということになります。

本当に現代人でよかったとホッとします。



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